グチ


たぶん、グチなんてつもりはなかったんだと思う。
いわゆるママ友的お付き合いが苦手だった母さんにとっては(アオもママ友コミュニティとか全力で避けるけど!)
ダンナさんのことをポロっとグチれる相手はアオしかいなかったんだろうね。

父さんはいつもやりっ放し
父さんはいい加減なんだから
父さんは…

母さんにとっては、愛情もこめた、ほんのちょっとした息抜き程度のグチだったと思う。
でもね。
幼稚園児にはそんなことはわからない。
言葉を額面通りに受け取ってしまう。

一番近くにいる母親を困らせるヨクナイ父親。
母親と子供らが結束を高めて父親が疎外感を深めていく、
世間によくある典型的な構図。

アオも例外じゃあなかった。
母さんの口まねをして、
「これだから父さんは」
って生意気に責めるよね。

口は達者な方だったし。
お陰でのちのち父さんには、
「お前がかわいかったのは五歳までだった」
と言われたわ。

それね、世間でもよくあるパターンだよね。
そしてそれがやがて父親が家に寄り付かなくなる原因にもなってるよね。

そう思ったアオは妊娠したとき、子供の前では絶対にパパのグチや悪口を言わないぞ、って決めたんだ。
だって自分の子供に、自分の父親を疎ましく思われるのがイヤだったんだもん。
今のところなんとかうまく行ってるかな。
娘はパパを批判するような生意気な口はきかないよ。

そんなアオの物語、まだまだゆるりとお付き合い下さいな。

続く。

ピアノ

幼稚園に入る前のことだったかな。

母さんと父さんに聞かれた。
「バレエとピアノ、どっちをやってみたい?」

ずっとピアノに憧れて、自身が習いたかった母さん。
舞台が好きで、女の子ならバレエをやらせてみたかった父さん。

アオ自身は、バレエはテレビで見たことがあったくらい。
ピアノは、母さんが通っていた文化教室の中にヤマハ音楽教室があって見かけていたから、少しはなじみがあった。

そしてアオは「ピアノ」と答えた。

通い始めたのはなじみのヤマハ音楽教室、幼児クラス。
ソルフェージュ、音や歌に親しみを持つことから始まった習い事。
おかげで耳は鍛えられて、今でも音を聞けばメロディを再現するくらいはできる。

アップライトのピアノも買ってもらった。
音楽は好きになったけど、毎日の練習はなかなか取りかからなくて、いつも怒られてたな。

あの時「バレエ」と言っていたらどうなっていたかな。
たまに、考える。

そしてン十年後に、自分の娘がバレエを習いたいと言い出したのも、なにか縁みたいなものかな。

そんなアオの物語、まだまだゆるりとお付き合い下さいな。

続く。

園バス


早生まれのアオが4歳になってすぐ、隣町にできた新設の2年保育の幼稚園に入園した。
写真を見ると、園庭や遊具はまだ一部工事中みたいな、
本当にできたてほやほや感満載の幼稚園だったな。

徒歩で行ける距離ではなかったので、通園は園バス。
住んでいた団地のすぐ外側を走る道に、毎朝近所の子たちが列を作ってバスを待っていた。
それだけ同年代の子供の多い地域だったのね。

アオは…
バス停まで1分の距離だったのに…
毎朝のように遅刻スレスレ。

「アオイちゃん、バス来てるよバス!」
とお友だちのお母さんが呼びにくることもあったぐらい。

夜もちゃんと遅くない時間に寝て、朝も起きているのに、アオはとにかく身仕度がトロかったんだね。
と思って来たのだけど。

自分が子育てを始めてから、もしかしたらあれは自分がトロいからだけではなかったのかも?と思うようになった。
トロい子なら、それを見越して起こせばいい。
自分で自分のことをやらせる方針なら、なおのこと余裕をもって声かけをすればいい。

なのにいつもギリギリになって急かすはめになるのなら、それはそもそも起こす時間や声かけが足りないのではないか。
自主的、を言い訳にした放置?

と感じたのは、アオの、娘に対する我ながら理不尽な急かしかたを省みて、のこと。
ごめんね娘、と内心思った時に、もしかしたら子供の頃の自分も似たような環境だったのかも、と思った。

そしていまだに、ギリギリで走り続けている生活なのよね(笑)

三つ子の魂百まで。

そんなアオの物語、まだまだゆるりとお付き合い下さいな。

続く。

大人になるのはイヤだなあ

「夕飯、なにがいい?」
アオはよく母さんに聞かれた。

でも幼い子供のレパートリーなんて少ないじゃない?
アオはいつもエビフライ、って答えて却下されてた気がする(笑)

そういえば少し前に、奥さんが旦那さんに「夕飯は何にする?」と尋ねる時は、単純なメニューのリクエストを聞いているわけではない、なんて記事を見た。
奥さんが求めているのは
「冷蔵庫の中身や家人の昼間食べたメニューとのバランス、コスパなどを総合的に考えて、メニューを考えるという労力を、一緒に分かち合ってくれること」
なんだって。
結構納得。

まあ、母さんが子供のアオにそこまで求めていたわけではないだろうけど。

でも毎日、ため息をつきながら夕飯のメニューを尋ねてくる母さんをみて、
アオは大人になりたくないなーって思ってた。

少しだけ大きくなってから母さんにその話をしたら、
大丈夫よ、アオが大人になる頃には「ご飯だよー」って目の前に出されるお皿には、ビタミン剤みたいな粒がコロンと数粒転がってて、それでご飯はおしまい、って世の中になってるから。
と言われた。

それを聞いて、本当にそうなって欲しいなーと思っていた。
母さんは、基本的に食というものに興味がなかったのだろうね。

そんなアオの物語、ゆるりとお付き合い下さいな。

続く。

布オムツ

アオは布オムツで育てられた。
母さんの方針で、紙オムツだと濡れた感覚がわからなくてなかなかオムツ外れが進まないから、という理由だったみたい。

けどアオは、2年保育の幼稚園に進む頃になっても時々間に合わなくて漏らしたし、
おねしょも毎晩のようにしてた。

お洋服や夜のシーツの洗濯とか、それだけでもストレス値アップだっただろうなぁ。
おねしょに至っては小学校3年生になっても治らなかった。

おねしょやお漏らし対策に、夕飯の時にはお水やお茶は出なかった。
この水分不足が別のところに後々影響してたから、バランスって本当に難しいよね。

補足するとアオのおねしょは病的なものではなく、
内蔵の発達が少し遅かっただけみたい。
そしてこの成長曲線は遺伝もあるんじゃなうかな、と思うよ。

そんなアオが4歳の時、隣町に新しい幼稚園ができた。
アオや近所の子は、その幼稚園に通うことになった。

続きはまた。
ゆるりとお付き合い下さいな。

つづく。

りゅうさん


街角で、劉さんに似た人を見かけた。
アオの知っている劉さんは15年前の姿だから、本人であるはずはない。

劉さんは中国からの留学生。
アオが最初に働いていた夜のお店の、厨房をやっていた。

日本語は片言。
英語も片言。
アオの英語も片言。

だから身ぶり手振り、たまに漢字の筆談での会話。

喜怒哀楽のハッキリした人だったけど、笑ってることが多かった気がする。
日本語が通じにくいからお店の女の子は敬遠してた。
でもアオは片言同士の会話でも楽しくて、仲良くしてた。

北京大学に行ってた、それ以外は何も知らない。
北京大学の話だって、本当かどうかわからないけどね。

水商売だもの。
お互いにね。

アオがお店を辞めて会うこともなくなって、それっきり。
たまーに思い出す。
わりとイケメンだったよ(笑)

劉さん。
今どうしてるのかな?
元気でいるといいな。

ふと思い出した雨の夜。

抱っこ


アオの娘が3歳くらいの時。
神奈川の実家に行った。

甘えん坊の娘が、道を歩きながら抱っこをせがんできた。

アオたちは基本、抱っこをたくさんしてあげる方針。
抱き癖なんて、大人の都合。
いずれ子供は自ら離れて行くんだから。

だけど母さんがアオを子育てしていた時代は、
抱き癖がつくからせがまれても抱っこしない、という風潮。
母さんもアオをそんなふうに育てていた。

だから娘がアオに
抱っこ~
と言うたびに、母さんは娘に
まだ抱っこなのぉ?赤ちゃんみたいよ?
と言っていた。

そしてアオに、
あなたは抱っこ~って言わない子だったわ、
小さいときから抱っこって言われても「しません!」を貫いたからね、
と自慢げに言った。

アオは心の中で、

違うよ母さん、本当はアオだってたくさんたくさん抱っこして欲しかったんだよ…

って思った。

そう、アオは寂しかったんだ。
もっともっと母さんに甘えたかったんだ。

けど母さんは、アオを一人前にするためには甘えん坊じゃダメと考えていたんだね。

一人っ子のアオをきちんと自立させるー…
それが母さんの育児方針だったんだ。
でも幼いアオは…。

続く。

母のこと、その1

母は、愛知県で生まれ育った。
戦後の混乱の中、三人姉妹の真ん中として。

一番上のお姉さん(アオの伯母さんね)はお母さん(アオのばあちゃんね)の田舎に預けられてたから、
アオの母さんが実質的には長女みたいにして育った。

お父さん(アオのじいちゃんね)は戦争で身体を壊して帰ってきたから、働けなかった。
だからお母さん(アオのばあちゃん)が一人で働いて、アオの母さんたち姉妹を育ててたんだって。

当然、学費どころじゃない。
それでも勉強をしたかった母さんは中学卒業後に就職をして、定時制高校に通った。
そして奨学金を借りて大学にも進学した。
あの時代で考えたら、すごいことだと思う。

それから大学で同級生だった、父さんと、卒業後まもなくして結婚した。

そうして、アオが生まれる。

努力家の母さんは自分の努力と意思で自分の道を切り開いてきた。
けど。
赤ちゃんのアオは、意思が通じない。
「早く言葉が通じるようになれって毎日思ってた」
って言ってた。
それに。
赤ちゃんのアオは、母さんの努力だけでは言うことを聞いてくれない。

高度成長期の時代、サラリーマンだった父さんもご多分に漏れず、仕事人間だった。
休みの日に接待ゴルフこそなかったけど、その代わりに休みは自分の好きなように過ごしていた。

母さん、地元じゃないから友達もいないし、母親同士の交流とかも苦手な人だったから…

友達もいない
赤ちゃんは言葉が通じないしアトピーでぐずる
話を聞いてくれるダンナもいない

そんな状況、それがその後にどうつながっていくのか。
なんか、想像がつくでしょ?

続きはまた明日。
ゆるりとお付き合いくださいな。

続く。

テーマ : 伝えたいこと・残しておきたいこと - ジャンル : 日記

アトピっ子


アオは生まれた直後から肌が弱かった。
いわゆるアトピっ子。

今はアトピー性皮膚炎って病名も有名になったから、まぁまだ周りからの理解も得られやすいよね。
けどこれが昭和50年代ともなると。

母親が清潔にしてあげないからなってる、みたいな偏見とかいっぱいあっただろうね。
2000年代前半に子供を生んだ友達でさえ、アトピーの引っ掻き防止に赤ちゃんの手に手袋を嵌めてたら
「自由を奪ってかわいそう」
とか言われたらしいから。
それよりもっと昔の、アトピっ子を抱えたお母さんは本当に大変だったと思う。

アオがかかった小児科の先生は
なんにもしないでも18歳くらいになれば(細胞が入れ替わるから)自然に治るよ、
ただ日々の生活ではお肌を清潔に保つこと、
と言ってたみたい。

そこでね、
マジメな母さんが何をしたかって言うとね。

汚れがしっかり落ちるように、
すっきりさっぱり洗い流せるように、
…普通の手拭いをやめてナイロンタオルで洗うようにしてくれたよ…

…今なら絶対にあり得ない選択だけどね(笑)

アレルゲンはいろいろあるけど、アオの場合は食べ物には基本的にはなかった。

一番影響してたのは「ストレス」じゃないかなぁ。
と今なら思う。

その話はまた後日。

ゆるりとお付き合い下さいませ。

続く。

最初の記憶


アオの一番古い記憶はたぶん、0歳の時。

母さんに抱っこをされて、アオは自分のすぐ上に見える母さんのアゴを手で押し上げて、
母さんは苦笑いしながら「もおー」って言ってた。

その次の記憶は2歳くらいかな?
またがって足で漕いで進む、新幹線型のおもちゃ?に乗って、
近所の歩道橋のスロープを滑り降りてるの。

アオは2年保育の幼稚園だった。
だから幼稚園入園は4歳かな。
入園までの記憶は、断片的にしか残ってない。

ま、そんなもんか。

幼稚園に入ったくらいから、だんだん記憶が増えていく。

ゆるりとお付き合い下さいな。

続く。

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ちゃんと投稿できるか、お試しだよ

生まれた日

アオが生まれたのは3月。

母さんは経産婦。
前回は帝王切開。
なのに二人目になるアオの時は普通分娩て、今だと考えにくい気もするけれど。

なおアオの兄にあたる赤ちゃんは、1000g未満の超未熟児で、生後数日で亡くなっているから、アオは会ったことはない。
けど、自分の肩にはいつも兄ちゃんがついて守ってくれてる。
ずっとそう感じている。

アオは3,500g超の大きめで、健康に生まれた。
暗い分娩室で、一人でうんうん唸って、
生まれて取り上げられたらすぐ別室で、
ぽつーんと分娩室に残された時は妙に虚しかった、と母さんは言ってた。

昭和50年代だものね。
今とはいろいろ、違うよね。

とにかくこうして、アオはこの世に生を受けた。

続く。

はじめに。

このブログは、管理人アオイの半生の記録箱。
なんてことはない平凡な生きざまだけど、いつか残してみたいなと思っていて。

アオに関わってくれる人たちに、
そんな生々しいアオの姿は見たくなかった
とか、
プライバシーをさらされた!
とか 悲しい思いをさせないために、多少のフィクションやぼかしは入ってます。

でも基本はドキュメント。

アオ自身は、そんな過去も現在もひっくるめて、
これがアオだよっ!
って言う自信があるよ。

ゆるりと、お付き合い下さいな。